『恩寵無限』    04.08.22  大嶋牧師
                エフェソ 3:14〜21

 今日は、「恩寵無限」この言葉を覚えて帰って欲しいと願っています。
恩寵という言葉は特にキリスト教的な言葉です、寵と言う字は、家の中に
龍がいる形です。家に龍が住みついたら大切に扱います。
 神様が私達を愛してくださる仕方は、罪人を赦して愛すると言う形でなく、
最高の宝として大切に、大切に愛して下さるのです。
 「恩寵無限」を表した、『キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ』を色々と
具体的に思いを深めて行きましょう。

 『キリストの愛の広さ』は民族も性別も超えていましたが、イエス様の
十字架の死と復活と昇天の出来事に出会って大爆発的に全世界に
広がったのです。パウロの世界伝道は言うまでもありません。
 日本では戦国時代の終わりの頃、ザビエルはイスパニヤから大西洋、
インド洋、太平洋の万里の波頭を越えて遥々とイエス様の愛を伝えに
来たのです。イエス様の愛の広さは宇宙的な広さです。

 『キリストの愛の長さ』は、永遠の昔から永遠の未来に向って変らない
長さだけでなく、我慢の長さだと言えます。澤田先生が八十五才の時、
色紙に『背けども背けども、なお捨てまさで、救いを給う愛ぞとうとき。』と
書いて下さったのがあります。 私にも、人には言えない恥ずかしい事、
失敗の数々、牧師らしくない数々がありました。こうした者を忍耐して
くださる愛こそ『キリストの愛の長さ』です。

 『キリストの愛の高さ』と言えば、天としか考えられません。
 しかし、フィリピの手紙2章6節以下に次のようにあります。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しよう
とは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、〜〜人間の姿で
現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順
でした。」ここにキリストの愛の高さがあります。なんと有り難いことか。

 『キリストの愛の深さ』は地獄の底まで届くのです。『使徒信条』に「陰府に
くだり」と言うところがあります。陰府とは死人の行くところです。
 イエス様は其処に行ったのです。何の為に?昔、ノアを嘲笑って水に
溺れて地獄に堕ちてしまったと思われていた人々を救うためです。
 恩寵に囲まれて生きる幸いを伝えるのが私達の使命です。